桓武《かんむ》天皇が都を平安京(今の京都)にうつしてから、源平の争いで武士の政権(鎌倉幕府)へつながっていくまでを平安時代という(794年〜12世紀末ごろ)。
はじめ(遷都と改革)
桓武天皇は奈良の都で力をもっていた寺の勢力から少しはなれ、政治とくらしを立て直そうとして平安京に遷都しました。
東北地方(蝦夷《えみし》)への軍事行動で国の支配できる範囲も広げました。
摂関《せっかん》政治
藤原氏は娘を天皇のきさき(后《きさき》)にして、生まれた子どもを次の天皇にし、自分たちは天皇が幼いときは摂政《せっしょう》、大人になると関白《かんぱく》となって政治を進めました。これを摂関政治といいます。
藤原道長《みちなが》・頼通《よりみち》のころが最も栄えた時期です。
国風《こくふう》文化
中国のまね一辺倒ではなく、日本のくらしや好みに合ったしずかな美しさが好まれるようになりました。
かな文字(平仮名・片仮名)が広まり、物語や日記がたくさん書かれます。
代表作:
- 竹取物語(作者不明)
- 源氏物語(紫式部)
- 枕草子(清少納言)
- 古今和歌集(最初の勅撰《ちょくせん》和歌集)
武士の登場
地方では土地や用水をめぐる争いがふえ、武装して自分の土地や人々を守る集団(武士)が育ちました。
元は貴族や国司《こくし》の仕事を助ける「警備役」「護衛」でしたが、しだいに戦いの専門家になります。
天皇の子孫から分かれた源《みなもと》氏・平《たいら》氏などが各地で力を持ち、まとめ役のリーダーは棟梁《とうりょう》と呼ばれました。
平将門《たいらのまさかど》(東国)や藤原純友《ふじわらのすみとも》(西国)の反乱は、武士が大きな力を持ちはじめた証拠です。
院政《いんせい》
11世紀なかごろ、藤原氏と強い血のつながりがうすい後三条天皇が現れ、つづく白河天皇は上皇《じょうこう》(位をゆずった天皇)になっても政治を動かしました。
上皇やその御所を「院」と呼ぶので、上皇が政治を主導するしくみを院政といいます。
こうして「天皇+上皇(院)」「藤原氏」「寺社」「武士」など、力をもつ集団がいくつも並び立つ形になっていきます。
荘園《しょうえん》と地方
もともと国司が戸籍や田んぼを管理し税(租庸調《そようちょう》)をとるしくみ(律令《りつりょう》制)がくずれ、農民や地方の豪族は税をへらすため、土地を貴族や寺社、上皇などに「寄進《きしん》(ささげる)」して守ってもらいました。
こうしてできた私有地が荘園です。国が直接あつかう土地は公領《こうりょう》と呼ばれ、土地は「公領と荘園」に二分されていきました。
武士も荘園や公領の仕事(年貢のとりまとめ・警備)をすることで、さらに力をつけます。
東北では奥州藤原氏(平泉《ひらいずみ》)が金や馬などで財力を持ち、中尊寺金色堂などを建てて栄えました。
平氏の台頭《たいとう》
院政の勢力争い(保元の乱・平治の乱)で武士が中央政治に深くかかわるようになり、平清盛《たいらのきよもり》が頭角をあらわします。
清盛は一族を高い役職につけ、娘を天皇のきさきにして外戚《がいせき》(天皇の母方の親せき)となり、武士として初めて本格的に政権をにぎりました。
日宋貿易を進めて瀬戸内海や港を整え、宋《そう》から陶磁器・絹・銅銭などを取り入れましたが、しだいに不満も高まりました。
宗教と信仰
最澄《さいちょう》(天台宗)や空海《くうかい》(真言宗)が伝えた密教《みっきょう》は、呪法《じゅほう》や祈りで国や人を守ると考えられ、朝廷に重んじられました。
「末法《まっぽう》」(仏教の教えが弱まる時代)が近いと不安が広がると、阿弥陀如来《あみだにょらい》を信じて極楽往生《ごくらくおうじょう》を願う浄土《じょうど》信仰が人気を集め、平等院鳳凰堂《ほうおうどう》などがその象徴です。
人々のくらし
農民は年貢《ねんぐ》(米など)や労役の負担が重く、逃げ出したり戸籍にのらない人も増え、昔のきっちりした制度はくずれていきました。
名主《なぬし》(有力農民)は土地と人をまとめ、家子《いえこ》・郎党《ろうとう》(家来)をそろえて小さな武士団のようになり、のちの武家社会の土台になります。
末期(源平の争い)
武士の不満と平氏への反感が高まり、源氏が再び台頭。治承・寿永の内乱(源平合戦)で平氏は滅び、源頼朝《みなもとのよりとも》が新しい武士の政権(鎌倉幕府)へ進み、日本の政治の中心は貴族から武士へと大きく転換しました。
まとめ
平安時代は
- 摂関政治 → 藤原氏が外戚として力を集中
- 国風文化の完成(かな・物語)
- 荘園の広がりと律令制のゆるみ
- 武士の成長と院政の多極化
- 平氏政権から源平合戦へ
という流れで、次の鎌倉時代(武士の本格的な政権)につながりました。
宗教と文化
密教(空海・最澄:真言宗・天台宗)が朝廷保護を受け、加持祈祷で王権正統性を補強。山門(延暦寺)と寺門(園城寺)勢力が台頭。
末法思想流布で浄土教信仰(念仏・阿弥陀浄土図)が貴族層に浸透。藤原頼通の平等院鳳凰堂建立は浄土往生願求を象徴。
国風文化
唐風模倣から和様化:仮名(平仮名・片仮名)普及で物語・日記文学(源氏物語・枕草子・和漢朗詠集)が成立。和歌は勅撰集(古今和歌集)で技巧化。寝殿造住宅と調度・装束(女房装束)など宮廷生活が洗練。
人々の生活
在地農民は公領・荘園領主への年貢・公事・雑役を負担。下地中分・荘官制などで徴収は複層化。
名主は名田経営と年貢納入責任で在地支配力を強化し、武装化した家子・郎党を従え武士化の基盤。
貨幣代替として米・絹・布・銭が併用され、流通が局地的市場(草市)を発生させました。
末期動向
治承・寿永の内乱(源平合戦)で平氏政権崩壊。源頼朝は東国武家政権(鎌倉幕府)樹立に進むことで、貴族・院中心の支配構造は転換点を迎えました。