前方後円墳などの古墳が盛んに造られた時代を古墳時代という。古墳時代は、3世紀中ごろから7世紀まで続いた。 / →詳しくは文化も参照
ヤマト王権
古墳時代には、大王《おおきみ》を中心とする政権がありました。これをヤマト王権と呼んでいます。これは、仁徳陵古墳(大仙古墳)などの巨大な前方後円墳が大和《やまと》(現在の奈良周辺)に集中していることから言われています。ヤマト王権の勢力は5世紀後半で九州地方から関東地方までの広い範囲まで広がり、豪族たちはそれに従いました。
大王はのちの天皇、ヤマト王権はのちの日本国です。
豪族
大王は中国では**倭王**と呼ばれ、ヤマト王権の王として君臨していました。ヤマト王権には大和およびその周辺の豪族たちが加わって、決まった仕事を代々1務めて全国支配に携わっていました。各地の豪族たちは貢物を納めたり、従者を差し出したりしてヤマト王権に仕えました。
豪族たちは、ヤマト王権の支配を支える重要な存在でした。彼らはそれぞれの地域で土地や人々を管理し、必要に応じて軍事力を提供しました。また、豪族たちは自らの権威を示すために古墳を築き、死後はそこに葬られることが一般的でした。このように、豪族たちはヤマト王権の地方統治の基盤を形成していました。
人々の生活
豪族たちは、それぞれ氏《うじ》という集団を作って立派な館に住み、死後は古墳に葬られる一生を過ごしていました。しかし、一般の人々の暮らしは、家は竪穴住居、墓は穴を掘っただけの簡素なもの、というきわめて質素なものでした。そんな中で鉄製農具(鉄製のくわ・すき・かま)が普及し、土地開発・農業生産の効率は上がっていきました。須恵器《すえき》→須恵器。
一般の人々の生活は、豪族たちの華やかな暮らしとは対照的に、質素で厳しいものでした。彼らは主に農業に従事し、鉄製農具の普及によって生産性が向上したものの、生活の基盤はまだ脆弱でした。また、住居は竪穴住居が一般的で、寒さや暑さをしのぐ工夫がされていました。
いっぽうその頃中国では…
4世紀から6世紀にかけて、中国では漢民族の南朝と騎馬遊牧民族の北朝が並び立ち、しばしば争いが起きていました。中国東北地方から朝鮮半島の北部にかけては**高句麗《こうくり、コグリョ》が強い勢力をもち、朝鮮半島南部では百済《くだら、ペクチェ》と新羅**《しらぎ、シルラ》が統一を進めました。百済と新羅に挟まれた伽耶地域では両国に対抗しました。
外交
ヤマト王権は4世紀に朝鮮半島へ出兵し、その後も百済などと強いつながりをもち続けました。
5世紀には倭王が5代にわたって中国南朝に使いをおくり、力を認めてもらいました2。
朝鮮との交流が盛んになると、大量の鉄がヤマト王権にもたらされ、農業や軍事の力を支えました。朝鮮半島の人々が大和とその周辺に移り住むことも増えました(渡来人)。
外交面では、ヤマト王権は朝鮮半島の国々と密接な関係を築きました。特に百済とは技術や文化の交流が盛んであり、鉄資源や工芸技術の導入に大きく寄与しました。また、中国南朝への朝貢を通じて国際的な地位を確立しようとする動きも見られました。
渡来人は大規模な土木工事、馬の飼育や馬具の加工、高級な絹織物や高温で焼き締める土器(須恵器)などの生産技術、漢字の本格的な読解記述力、儒教や仏教をもたらし、日本の文化や生活に大きな影響を与えました。また、ヤマト王権に仕えて書記・財政・外交などで活躍し、政権の力を強める役割を果たしました。
渡来人の影響は、技術や文化の面だけでなく、ヤマト王権の統治能力を向上させる点でも重要でした。彼らがもたらした技術や知識は、ヤマト王権が広い地域を支配するための基盤となり、後の中央集権化の流れを準備しました。